なずな日記
2020.03.17
今年も3月11日が巡ってきました。あの、東日本大震災の日です。私は当時、千葉に住んでいました。
私は、乳がん術後の定期診察を受けて、病院から帰ったところでした。すると突然、大きな揺れを感じました。
「おいちゃん、地震だ!」
おいちゃんは自宅を事務所にしている税理士だったので、家にいました。
「何言ってるんだよ、揺れてなんか…あ~っ!!本当だ、大きい!」
食器棚と本棚が倒れそうです。私は食器棚を押さえ、おいちゃんは本棚を押さえました。
「おいちゃん、怖いよ!!」
「おいちゃんも怖い!!」
どれくらい揺れ続けていたのか、わかりません。かなり長い時間だったような気がしました。実際にはそうでもなかったのかも知れません。
押さえつけていたおかげで、本棚は倒れることなくそのままで、食器棚は中の食器が扉側にずれていました。押さえていなければ、食器が飛び出していたことでしょう。
安物の食器ばかりですが、なければ不便だし、片付けも面倒です。
気が付くと電気はつかず、水も出なくなりました。
水は体に良いと言われる水素水を作っていたので、2リットルのペットボトルが冷蔵庫に4本ほどありました。食べる物はどうしようか?近くのスーパーに行ってみると、近くの年配の女性が誰かと話をしているのが聞こえました。
「こんな時は料理ができるかどうかわからないから、お弁当を買った方がいいわ」
なるほど、それもそうだ。スーパーも、お弁当を半額にしてくれていました。
もちろん、その日はお風呂に入れるはずもなく、ろうそくの光でお弁当の夕食を食べました。
トイレは近くの公民館のを使わせてもらいました。
お風呂には困りました。まだ寒い時期でしたが、日本人は2、3日お風呂に入らないと、気持ちが落ち着かなくなります。
スーパー銭湯に行くと、入場制限をしています。家のお風呂が使えなければ、こういったところに行くしかないのは皆同じです。
そこは入れそうにないので、隣町の小さな銭湯に行きました。かなり混んでいて、湯船のお湯も膝くらいしかありませんでしたが、大変ありがたいと思ったのを覚えています。
私達は被災したと言っても、この程度で済みました。
しかし、私の近所でも場所によっては、地面の液状化で地中の泥が庭に出て、でこぼこになったり、道路が上下にうねったりしている所もありました。
何かできることはないかしら?
そう思った私は、生れて初めてボランティアに行きました。すると、大勢の若い人が、ボランティアのために集まっています。この国も捨てたものではない。そう思ったものでした。
ボランティアに行った先の人たちも、心から喜んでくれて、こちらもうれしくなりました。
この時の教訓ですが、やはり非常時の備えは必要です。今回のマスク、トイレットペーパー事件もそうですが、適正な食料、水、日用品のストックは大事です。
この時から、私は家に非常用の水や、食料、日用品を常備するようになりました。
水が出なくなると手を洗うことができません。ウェットティッシュは必須です。そして何より、トイレです。
人間、入れることより出すことの方が大事です。簡易トイレを3日分ほど用意しました。
ちなみに、今品薄のトイレットペーパーですが、男性は月に4ロール、女性は月に8ロール必要だそうです。
おいちゃんがいたときは、おいちゃんの分の水や食料もストックしていましたが、今は私一人。だから、その半分のストックです。
あの時はおいちゃんがいたので心強かったけど、今度大きな地震があったら、一人で大丈夫かな?
おいちゃんがいなくなってから、一人旅をするようになりました。台湾の温泉地に行ったとき、東日本大震災で被害甚大だった東北に住んでいるという、まだ若いご夫婦に会いました。
「家が全部流されたんですよ。命からがら避難しましたが、友達や親せきが何人も亡くなりました。勤めていた会社も倒産したので職も失いました。人生観が変わりましたね」
あの時の東北は、テレビで報道されていましたが、大変悲惨なものでした。
人間というのは、目の前の出来事が受け入れられないと、体が動かなくなるのでしょうか?迫ってくる津波を、ぼう然と見ている人がいました。
車で逃げるのだけれども、道路が津波と平行になっているので、なかなか津波から遠ざかることができない人もいました。
今でも、ご遺体が見つからない方も数多くいらっしゃるようです。
ご遺族が少しでも、心安らかに過ごせますよう、願うとともに、犠牲になった方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
葬儀についての資料を
ご送付いたします。